「ティ、」
「聞きたくない!」
塞がれるはずだった―――違う、自分でそう勝手に解釈していた唇が反射的に開いて、みっともない音を発した。額の一点が酷く熱い。焼け焦げるような痛みに息が詰まる。眉と眉の間、小さな子にやるような、触れるだけの。
「ちがう―――違うでしょう、ロックオン、」
頬にはいまだ彼の皮手袋が添えられている。濡れているそれは生臭い海と雨の匂いがした。動物のにおい。打ち上げられて死んだ魚のにおいだ。
「余計なものは、何一つ、いらないんじゃなかったのですか」
「……ティエリア」
「腕時計もいらない。ジャケットも靴もいらない。そうでしょう、ねえ、」
「ティエリア」
「ずっとここにいたいなんて嘘だ。嘘じゃないか!」
「ティエリア」
鼻腔をくすぐるその匂いと、いつまでも皮膚を侵す熱が煩わしくて顔を振るのに、ロックオンの手はぴくりともしなかった。そんな風に固定しておいて唇が触れたのは眉間だ。ひ、と息が喉に絡まった。肺がきつく絞まるような、身体の中身がせりあがるような、そんな焦燥に骨が軋む。身体がたわむ。出撃するときの負荷に似ている、脳の片隅で冷静な自分が哂う。
「つ、くりもの、造りものですか。ええそうです、僕は造りものだ、本来の意味で―――真理に於いて、僕はあなたとは違う。違うんだ」
「ティエリア」
「あなたとは違う、……あなたが失ったものとも、違う!」
ロックオンはまた、左手の親指で頬を撫でた。右手はずっと煙草を持って垂れ下がったままだ。どちらも同じ黒皮に包まれているのに、そちらは身体の影に隠れていて、なんだか赤黒く染まって見えた。答えはそれか。それが、答えか。何度も目の下の皮膚を擦る彼の指が思考を拡散するのだ。そんな、何かを拭うような仕草は止めて欲しい。雨の雫でもついていますか?この身体はボンネット、全てをはじく造りものの基線。乗りこなされる彼の愛機と何が違う?
「……曇りも、」
たとえば髪を振り乱して、泣き喚いて縋り付いたら。不思議なことに列車を降りてからずっとそればかり考えていた。彼の薬指を縛る何か。彼の背骨。彼の素足。
「曇りも小雨も、嫌いなんだ」
「……ロックオン、」
「曇りも小雨も寒いのも嫌いだ。大嫌いだ。厭で厭で仕方ないくらい」
ゆぅらり。眇められる緑は深海の色をしている。どんなに幸せな魚も鳥も、けして見られない深さの色。
「曇るといつか雨が降るだろう。雨が降ると寒くなるだろう。それで、そんな日は大抵ひとが死ぬんだ」
「……ひと、ですか」
「そうだ。たとえば優しい父親、たとえば優しい母親、たとえば可愛い妹」
ずっと同じ場所にとどまっていたいだなんて、ロックオンが考えるわけが無かったのに。もしそれが本当の望みなら、いつまでも暗い路地でうずくまっていれば良かったのだ―――雨の降る寒い街で。返事も反論も、続きを促すこともできずにただ彼を見上げる。瞬きを繰り返すと、時折水の膜が張っては消えた。
「そんな日は、身体が重くってしょうがねぇ。重力がいつもの何倍にも感じられるんだ。それで俺は、ああ逃げられないなって思うんだよ。結局は、」
微笑んで首を傾けた彼の後ろ、洞窟の外は依然豪雨のままだ。雨が何重もの厚いカーテンのようになっていて、ああこれは自分の眼と同じじゃないかと可笑しくなった。見てくださいロックオン、素晴らしい視界の悪さだ。これではとても狙い撃てない!
「……ぼくは」
「ん…?」
「ぼくは、曇りも小雨も、寒いのも、重力も、」
「うん」
言葉を。音を。ひととは違うくせに、体中を駆け巡る気持ちをアウトプットする器官は、ひとと同じようにひとつしか無い。なんて使えない身体。わななく唇に必死に力をこめて息を吸った。いびつに歪む。まるで笑うのを堪えるように。
「全部、全部、嫌いです、ロックオン」
「……うん」
「けれどあなたのことは、」
ロックオンは微笑んだまま、小さな声で囁いた。
「―――ちゃんと読んでくれたんだな」
もしニールの1番になれていればと思う。酷く強い痛みを以ってそう思う。そうすれば彼を引き止められたかもしれないし、間に合っていたかもしれないし、救えたかもしれない。ニールのために。ニールのために。その実すべてが自分のためのエゴなのだ。哀しみたくないだけ、痛みを得たくないだけ。彼の愛機と何が違う?少なくとも彼の装甲となって彼と溶けゆくことは出来なかった。とんだ道化だ。機械以下だ。字も満足に読めない造りものだ。
ちゃんと読んでくれた、だって?
雨が酷すぎて、一文字だって読めませんでしたよ。
ぜんぶぜんぶ、滲んで消えました。
「……ニー、ル……!」
豪雨が一人きりの洞窟に反響する。最期まで唇を掠めなかった熱は、額の真ん中にぽっかりと穴を開けて僕を殺した。
あなたはもう、かえってこないじゃないか。