『 一文字だって読めやしない、黒い涙の塊だ。』


そのモノローグを幻として理解したところで、ティエリアは目を覚ました。

表現としてそれは間違っている。覚ますも何も、彼は眠っていなかったのだ。随分滑稽なことだ。睡眠はおろか、休息すら必要としない彼の身体は、あらゆる束縛を失って無重力を漂っている。


ティエリアのからだは、海に沈んだ。


二次元が彼を拒み、三次元が彼を手放した今、ティエリアは広い広い電子の世界を漂っている。主観は海底に。人格は数値に。肉体は電子に。およそヒトである証の全てを波に溶かしたティエリアは、ティエリアのようなものとしてシステムに組み込まれている。仕事を入力されれば稼動し、処理を終えればスリープに入る。
他のプログラムと変わらない。それが彼に対する評価で、彼自身の認識だった。


(………、)


ティエリアは主観の中の瞼を震わし、擬似的に目覚めを体感しようとした。生きていた頃、別に今は死んでいるわけではないのだからこれも間違いなのだが、とにかく生身の肉体があった頃のように、泣きはらして重くなった瞼がずしりと持ち上がった気がした。頬も濡れている気がする。明確に頬と呼べる場所はもう無いので、それも当時を思い出して再現したひとつのバーチャルだ。


(ああ、そうか……、)


なんだか幸せな夢を見ていた気がする。とても大切なひとと海に沈んで、そのまま消えてしまう話だ。ずっとそこにいたかった。今だって浮力のようなものがティエリアを包んでいるのだから、ここも海に近い場所ではあるのだけれど。

ここには、ティエリアしかいない。

ひとりだ。

 

(出撃、して、……)

 


白昼夢。一度は目覚めたのに、それすらもまた夢の中。


(世界は、)


ティエリアの世界は、ヴェーダという名前に上書きされてしまった。

ひとりだ。


(あなたは、)


夢の中。還元すればすべてが数値。解析、分解、連れてって、―――どこへ?

ひとりだ。


(ぼくは、)


ブツン。どこかとおいところでスリープへと移行するシステムの断末魔を聞きながら、ティエリアは手を伸ばす。もう存在しない、けれど彼が強く――身を切るような切なさで、在れば良いのにと願うその強さで、もう見えない手を伸ばす。

 

 

 

「―――ニール」

 

 

 

 

 

存在しない両手で、存在しない彼に触れる。

それは永遠に続く、白い惰性の愛慕だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


存在しないニールに抱きしめられたティエリアは、顔面の数値を少しだけ歪める。
彼の表情はまるで、       。

 


 

 

 

 

白い惰性 end.