時間だよ。
柔らか過ぎて消えてしまいそうな喚起に、瞼がふるりと痙攣した。小さな子供がねだる様な、厳かな老父が告げるような、そんな揺れを含んだ声だ。矛盾、と言い換えても良い。揺れ続ける声音は窓ガラスに波紋をつくった。
「……ずっと、」
起きていたのですか。らしくなく語尾を溶かせば、対面に座った男は苦く笑う。見慣れない格好だった。黒のジャケットとスラックス、黒の革靴、そして黒の手袋。両の手だけがいつも通り。日常にしがみつくための唯一の遺恨は、今は片手に紙煙草を挟んで揺れている。
「そうでもない、けど」
「退屈でしたか」
「そうでもない」
気にすんなって、と男は笑った。吐き出された煙が、わずかに開いた窓の隙間から細く漂って逃げていく。先ほどから轟音が大きくなったのはこのためか。窓の外を飛ぶように流れていく景色は、まだどこまでも闇一色だった。指を出せば簡単にはじけ飛ぶだろう。
ティエリアの席はここ。そう言って乗せられたこの列車は、出発してからずっとトンネルの中を走っている。空が見えないのは、時間の経過が分からないので非常に不便だった。長すぎる暗闇の走行に話も尽きて、どうやら自分はうとうとしてしまっていたらしい。迂闊、と素直に思った。自分たち以外に乗客はいない。ひとりにされたこの男は退屈だっただろう―――そうでもないと嘯くその目の色。
「今何時でしょう」
「時計が無いからな。どうだろう」
「腕時計も、ですか」
「余計なモンは何一つ、いらないの。俺は」
紙煙草を指に挟んだままひらひらと振る。そこらでは売っていない銘柄らしく、嗅ぎなれない不思議な匂いがした。甘い夜露と、爆ぜた火薬を混ぜたような薄紫の煙。たなびく。逃げていく。それはきっと男の肺を汚しはしない。余計なものにはなりえない美しさなのだ。結婚した女が形を示してくれと言ってきたらどうするのだろう、とぼんやり思った。束縛される薬指など見たくもない。
「でもそろそろだと思うぜ。風の感じが変わった」
何も無い薬指、否、左手が伸びてきて、髪を撫でていく。黒の光沢に絡む紫の毛先はなんだか酷く不恰好で、泣きたくなった。何をしても上手くいかない。顔を背けて窓を見れば、煤けたトンネルの壁面と歪んだ顔が見返してきた。列車の振動で窓が軋んでいる。スピードは一向に落ちていない。
「……どうしてそんなこと、分かるんですか」
「え?」
「風、なんて、見えないでしょう」
データ、測定器、波線と実証。目に見える数値が何一つない今ここで、この男は一体何を見ているのだろう。ぱちりと瞬いた碧の目が、すぐに面白そうに蕩けた。嘲笑とそうでない笑みの差は、この男に教わった。そんなこと本人は知らないだろうが。
「目に見えるものが全てか、ティエリア?」
「……いいえ」
「じゃあ、」
「ではこの手は、何ですか」
前髪を撫で終えた左手は、音もなく下がってきて頬に添えられていた。手袋ごしに伝わる微熱が、振動している。列車は止まらない。そういえば、物体というのは水素分子の劇的な振動によって発熱するものなのに、どうして今は過程と結果が逆転しているのだろう。考えが漏れ伝わったわけでもないだろうが、男はおまえね、と言って苦笑した。頬でも赤らめれば良かったですか。それ以上乙女になってどうするんだよ。望んだのはあなたでしょう?そうでもないよ。
「―――この手は、僕の基線をなぞる」
目に見えるもの、というのは何も可視領域の物体を指しているわけではない。ゆっくりと両手で掴んだ男の手首は、振動する手の平の微熱が嘘のように冷え切っていた。赤子みたいに力のぬけたその長い指に唇を寄せる。黒皮の下の、蒼く冷えた爪を思って脳が揺れた。
「僕の基線が確立される。ティエリア・アーデの形が確定される。此処にいる―――此処に在る、その輪郭が証明されるんです。そしてティエリア・アーデはあなたの手を知覚する。『自身に触れる手』を認識する。あなたの手の基線をなぞる。そして」
「俺の手が確立される?堂々巡りだ」
「世界は廻転しています。ご存知でしたか」
「残念ながら」
明けない夜は無いらしいな、なんて。古ぼけた言い回しは、埃臭い列車のシートにぴったりだった。背もたれのスプリングは疲れきっていて、硬い反動ばかりを背骨に伝える。がたんがたん、がたんがたん。どこまでも一定な振動が駆け抜ける。不変は美しい傷を脊髄に刻むだろうか。
「この目に見える全て、―――この手に触れる全てが」
男は言葉を忘れた様に、ただこちらの目をずっと見ている。あなたがみるすべて、あなたがふれるすべてが。
「それがすべてだ、ロックオン・ストラトス」
瞬間、視界を灼いた白熱で、彼の顔はよく見えなかった。
「―――ほら!」
突然地上に舞い戻った列車は、一切の勢いを崩すことなく青空の真下を猛進している。いきなりの光の増量に瞬きを繰り返していると、職業柄か何なのかあっという間に順応したロックオンに手を引かれて、無理に立ち上がらされた。
「ちょ、何を」
「もう着くぜ。終点だ」
「に、荷物も何もないでしょう」
「そうでもない」
「なぜこっちを見ながら言うんですか!」
「明けないトンネルもないらしいな」
ロックオンが窓を指す。呆れるほどの晴天と、純粋すぎるほど白い砂浜と、
「……海、」
時間だよ、ティエリア。紙煙草から最後にたち昇った囁きに唐突に理解する。簡単に消えてしまう美しさと、終末を迎えてしまったものの混ざり合った匂いだ。生と死。目に見えず触れもしないその基線。
列車は呼吸を緩め、終着の地に滑り込む。