駅には誰もいなかった。
列車を降りてからこっち、自分達以外に人間は見えない。ホームとは名ばかりの、ただ地面より1メートル程高く盛り上げられたコンクリートに影が焦げ付く。呆れるほど日差しが強い。
「行くか」
断定の口調で投げられたそれに顔を上げれば、ロックオンがひらりとホームから飛び降りていた。列車はすでに遠く、蜃気楼に最後尾が溶けて消える。振動していた線路もすぐに静寂を取り戻すだろう。ああ置いていかれたのだ、と実感する。夏日だ。
車窓から見た海はすぐそこに広がっていた。駅から歩いて2分もかからない。まっすぐ伸びた一本道、その先に横たわる青色。ロックオンは歩きながらジャケットを脱ぎ、雑にたたんで小脇に抱えた。白いカッターシャツはまるで発光しているように見える。うっすら汗をかいているその背中が、骨のかたちを透かしながらこちらを振り返った。
「暑いな」
「……ええ、」
「靴も暑い」
「今脱いだら、焦げ付きますよ」
「それは怖い」
子供のように笑う。ひび割れたアスファルトから草が生えている。名前も分からない平凡な草だが、鮮やかな緑が妙に美しかった。どうしてそんなところに生まれたのだ、と聞きたくなる。熱をはらんだ微風が吹いて、背の高いそれは頼りなく揺れた。答えなどないだろうと思った。誰だって答えられまい。
「見ろティエリア、海だぜ」
「これが海でなかったら、驚きます」
「水平線が見える」
「聞いてますか?」
「波がうるさくて聞こえねぇ、」
片手で髪を押さえてロックオンが言う。大げさな仕草に溜息が出た。どれほどの強風が吹いていて、どれほどの高波が出ているというのか。溜息を浚った熱風は彼の髪をわずかに揺らすだけだ。ぐしゃりと一掴みにして持ち上げた髪の束の下、汗の滲んだ首筋がちらりと見える。2本だけ髪がまとわりついている。あちーな、と呟く声は、波が静かすぎて良く聞こえた。
「誰もいませんね」
砂浜に続く階段を一歩ずつ降りる。段差が酷く大きいかわりに、5段しかない不恰好な階段だ。前を行くロックオンの革靴が白い砂にのめりこんだ。ぐし、ぎし、と軋む音がする。砂粒が、ひとつひとつの砂粒が踏みにじられていると思うと不思議だった。これも目に見えないもの、そして意識しない基線なのだ。列車の中での話は未だに脊髄を揺らしていて、……シャツにはりつく彼の背骨にもまだ残っていればいいのにと願う。相手を持たない祈りの仕方もこの男に教わった。ない物ねだりの一人よがり。無様だと笑うなら笑え、そうして失くすことに慣れるんだ。ロックオンはいつでも言葉をごまかした。
白い砂浜をずっと歩く。暑い、眩しい、綺麗だ、を一通り繰り返したあと、ふっつりと黙ってしまったロックオンの後ろを歩く。黒皮が砂粒を踏みつける。足元から水平線に視線をうつせば、空との境界線でぐずぐずに溶けた藍色が見えた。どことなく婉曲した水のライン。惑星の丸みが少しだけ分かって厭になる。逃げられない。
「ティエリア」
「何ですか」
「もし俺が、」
「……その仮定は、有意義なものなんでしょうね」
「それはこの先の展開によるんだけど」
「ロックオン、」
「なあ、もし俺が、もう」
ロックオンはふらふらと進路を変えていて、いつの間にか二人そろって波打ち際を歩いていた。当たり前だ、自分はずっと彼の足跡を踏んできたのだから。靴に何度も波がかかる。革靴は相当重たくなっているだろう。
「……もう、ずっと」
ぎう、ぎう、と砂が鳴る。ロックオンの足跡を踏みにじる。振り返ったところでもはや何も残っていないだろう。全部波が奪っていくのだ。喪われる基線。この目に見える全て。
「……ずっと、なんですか」
搾り出した声は馬鹿みたいに揺れていた。黒い靴が立ち止まり、白い背中が震え、骨が、
「ずっとここにいようって言ったらどうする、」
ティエリア?思い出したように付け足されたその名が、本当は誰かの代替であることなどとっくに知っている。振り向いた翠の瞳は自分を透過してどこかを見ている。揺れない線路、過ぎ去った列車、一人きりの草。あなたを縛るものは多い―――全部失くしたくせに。
「……好きにすれば良い」
指定席のチケットを買ったのはあなたでしょう。ロックオンは一瞬表情を消したが、すぐに微笑んで靴を脱いだ。どぷ、と鈍い音を立てて波に飲まれていく黒い靴。誰かの弔いのための色をだんだんと失っていくこの男は、いつまで言葉をごまかすつもりだろう。もう意味がないのに。列車はもう迎えに来てはくれないのに。
「 」
波がうるさくて聞こえませんよ。凪いだ海に言い捨てればロックオンが笑う。そういえばこの旅の目的を聞いていない、と今になってぼんやりと思った。