波が自分だけを避けていくわけもないので、仕方なく彼に習って素足になった。足の指と指の間を海がすり抜けていく。海水は肌を傷めるだろうか。静脈の透けた足の甲が他人のもののように見えた。人形だってもう少し優しい造りをしているだろう。
ロックオンのジャケットと靴は、もうずっと遠くに流されてしまった。ブーケみたいに放られた葬式の色と、それを楽しそうに見つめるロックオン。照りつける青色の下にあって彼だけが健康的で、その影は隠微の象徴だった。シャツとスラックスになったロックオンはどこかの学生のようで、そもそも学生が何であるかを知らないというのに、そんな都合の良い夢想をした。ジャケットが魚に食まれてぼろぼろになる様も夢想した。つつかれ、嬲られて弱りきった化学繊維が解けていく。沈黙のそれは壊死。
「潜りてぇなあ、」
「どうぞ。止めませんよ」
「ティエリアも来るか?」
「厭です」
身軽になったから舌も滑らかになったのだろうか。ロックオンはまたどこともなく波打ち際を歩きながら、時々思い出したように口を開いた。ひとつひとつの会話は短いが、途切れることなく話題だけが転換していく。
「魚と鳥はどっちが不幸だと思う」
「知りません」
「俺はどっちも幸せだと思うな」
「根拠は?」
「さあ」
答える自分はというと、これがいつもどおりなのかそうでないのかは分からない。もっとたくさん喋っていたような気もしたし、いつもはもっと無愛想に接していたような気もした。列車に乗ってから、過去の記憶と推測の境が曖昧になっている。いつもは、いつもは?いつもとは一体いつのことだ?
「カメラが、」
「はい」
「……カメラがあったら写真、撮れたのにな」
そしたら皆に見せれるだろ。皆、が具体的に誰のことを指すのか良く分からなかった。ここには彼と自分しかいない。写真を撮って現像したところで、すぐにそれを楽しめるのは自分たちだけだ。そう告げるとロックオンはなるほどと言った。もう帰らないと決めたのはあなたでしょう。
「ここであなたが撮った写真を、ここで二人で見ますか」
「あん時の海は綺麗だったなー、って?」
「あそこで靴を投げたあなたは馬鹿でしたね、と」
「その後マネして脱いだティエリアは可愛かったぜ、とか」
「ジャケットまで捨てたあなたは馬鹿でしたね、とか」
「馬鹿しか思い出が無いみたいだな……」
「写真と思い出は違います」
「ん?」
風が出てきた。
「確かに写真は記憶媒体の一種ですし、……思い出を形作る引き金になります。でも写真そのものと思い出はイコールではない。ロックオンが撮りたいと思った海の色は、きっと写真には現れない」
此処にいることが酷く不安定になって、風に逆らうように振り向いて視線を落とす。砂浜は確かに身体の重みを刻んでいるけれど、透明な水に浚われてあっという間に消えてしまうのだ。ロックオンも同じことを思ったのか、立ち止まって足元を見つめている。白い背骨が緩くうつむく。不意にその背中にすがり付きたくなった。
「そしてきっと、あなたが後で思い出す海の色も、写真には現れてくれません」
残しておきたいものはいつも一瞬で、大切にしようと決めた時には大抵もう壊れている。写真は真実を写すとは良く言ったものだ。切り取られた残像は、―――人工的な改変を除けば、もう二度と塗り替えられることのない絶対の記憶。ひとりきりになって思い出す色は、美化されて甘く淀んでいる。ロックオン、ティエリア。淡々とした会話に紛れ込ませた名前も、何処にも残らないままで。重みが無いから砂浜に埋もれもせず、形が無いから海の底で溶けることもない。此処にいて。此処にきて。連れてって。あなたを追い越すことも、横に並ぶことも出来ないけれど。
「……何だかそれ、写真の意義が虚しくないか?」
「逆でしょう。写真が重要で無いからこそ、それを嘆く必要もない」
海岸に果てというのはあるのだろうか。このままずっと、あてもなく歩き続けて、無駄な話をたくさんして、そうして形に残らないものを砂浜に落とし続ければ良いと思った。要は不変が欲しいのだ。ずっとここにいようと彼が言ったから。ロックオンがそう祈ったから。だから。
ぼつ、と小さな音がして、顔を上げると雨粒が目の前を通過するところだった。大粒の雨が、突然スイッチを押したように海に叩きつけられている。海なんて水の入った容器なのに、これ以上水を受け入れて溢れないのかと子供のようなことを考えた。これも夢想だ。子供の頭の中なんてひとつも分からない。
子供時代を途中で奪われたロックオンは、もちろんそんな馬鹿なことを考えたわけではないだろうが、酷くふやけた顔をして肩をすくめた。
「歩くぞ、ティエリア」
「―――ええ」
あなたがそうしたいのならば(もう理由など)。
「やっぱ潜りてぇなあ」
「海の底まで行ったら良いんですか」
「魚と鳥は、」
「飛べる魚と泳げる鳥は幸福の絶頂でしょうね」
「カメラは、」
「いりません」
「ティエリア」
「何ですか」
ありがとな。雨空と海に挟まれて濡れそぼった耳に、それは痛いほど焼きついた。まるで写真のような鮮やかさだった。
足は止まらない。